中学校 道徳教科書
東京書籍 新しい道徳
「選手に選ばれて」
内容項目 | C 主として集団や社会との関わりに関すること |
---|---|
10 遵法精神、公徳心 |
1.本教材について
(1)本教材の内容
▼本教材は体育祭のクラス対抗リレーに出場する選手選びにおいて、最高点で選手に選ばれたA 君が出場を拒否したことから起こったクラスのもめ事について考える教材である。こうしたこと は日常の学校生活においてよく起こるので、子どもたちにとっては身近に感じられるだろう。
▼A君は出たくない理由を言わず、「今年は絶対に出ないと心に決めている」と出場を拒絶した。 議長は「選挙で決まったことだ」「選挙で決まった以上、出ないのは勝手すぎる」とA君に迫った が、A君は「出ようと出まいと、ぼくの自由だ」と突っぱねた。理由を言わないA君に対してク ラスメートからは「選手になると勉強ができないから出たくないんだろう」と、いじわるな憶測 も出たが、実はそのとおりだった。A君は学期末の成績が悪かったので母からひどく叱られ、未 練のあった陸上競技部もやめていた。そんなA君だったから、リレーに出るとなると放課後の練 習にも出なければならず、勉強どころではなくなる。そのため、リレーの選手になることを断っ たのであるが、クラスメートとは激しいやり取りになった。
▼クラスメートの言い分。
「いったん選挙で選ばれた以上、クラス全員の代表として出場する義務がある」
「出ないのはA君のエゴではないか」
「勉強は個人のことで、体育祭はみんなの行事だ。個人のことが大事か、クラス全体のことがだ いじか、どっちなんだ」
▼A君の言い分。
「クラスのことがだいじでないとは言ってない。しかし、選手になったときの自分の勉強のおく れはどうなる? それに、勝手にぼくを選んでおいて、選ばれたから出ろというのは、一種の暴 力ではないか。もっと個人の気持も尊重してほしい」
▼この日の結論
「A君のエゴか、学級の暴力か、議論は結論の出ないまま時間切れとなった。しかし、これはだ いじなことだからもういちどみんなで話し合おうということで、この日は終わった」
(2)本教材の分析
▼この教材はリレーの選手選びをめぐる学級内の対立を、「A君のエゴか、学級の暴力か」とまと めて終わっており、結論は出していない。続きは次のように問いかけて、この教材を読んだ生徒 たちに考えさせようとしている。
① <考えよう>「選ばれた以上、クラス全員の代表として出場する義務がある」というみんなの 意見を、どのように思うか。
② <自分を見つめよう>集団生活の中で、果たすべき義務について、なやんだり困ったりした ことはあるか。
▼①②のいずれも、「義務」というキーワードで考えさせている。そもそも、この教材のテーマを伝える冒頭の表題自体が「義務について考えよう」である。教材名の「選手に選ばれて」より前に大きく掲げられているので、生徒は「義務の大切さについて考えるのが今日のテーマだな」と、あらかじめ導かれてしまう可能性がある。
▼この教材は2019年度から2年間だけ使用された教科書では、テーマは「権利と義務を考えて」であった。問いかけ②は「集団生活の中で、権利か義務のどちらがだいじか、なやんだり困ったりしたことはあるか」なので、「権利」と「義務」を天秤にかけて考えさせるようになっていた。リレーの選手を引き受けたくないというA君の「個人の気持」をA君の「権利」と言い換え、「選ばれた以上、クラス全員の代表として出場する」のを「義務」と言い換えて、両者を対立するものと置き、どちらが大切かと考えさせるようになっていた。ところが、2021年度から使用されている現行の教科書では「義務」しかないので、「権利」については、まったく考える余地がなくなってしまっている。同じ教材でも授業の進め方が集団の重視に傾いてしまっているのである。
▼リレーは体育祭の花形であり、一番足の速い生徒たちが出場して競い合うことによってこそ盛 り上がる。オリンピックも中学校の体育祭も同じである。競争である以上、勝たないとおもしろ くない。クラスの代表選手は勝つために練習し、その他の生徒は応援することによって団結し、 その結果クラスの絆が深まる。それなのに、A君のように小学校時代に「すばらしい成績を収め ていた」にもかかわらず、自分の都合で頑なに断る生徒が出てくることは、クラスメートにとっ ては腹立たしいし、クラスのまとまりを作りたい担任も困るだろう。だから、こぞってA君を何 としてでも説得しようとする。そんな時に「選ばれた以上、引き受けるのが義務だ」というのは 便利な言葉である。「義務」なら従うしかないからである。その結果、A君はしぶしぶ選手を引き 受けるか、あくまでも拒絶することによって、クラスに背を向け集団の輪を乱すものとして指弾 されることに耐えるしかなくなる。
▼このようなジレンマを解決するための一つの例として、東京書籍はある中学校の指導案をHP で紹介している。2019年11月12日の授業案なので、「権利と義務を考えて」がテーマだっ た時のものだが、2022年10月段階でもそのままHPで紹介している。また、東京書籍では 内容項目の「C―10 遵法精神・公徳心」を学ぶ教材とされているが、この指導案では以下の ように「C-15」に位置づけられている。
① 学習指導要領との関連づけ:「C―15 集団の中での自分の役割と責任を自覚して集団生活 の充実に努める」
②学級の現状:「集団を優先させて考えることができる生徒がいる一方、自己中心的な考えをもつ生徒もいる」
③ 授業のテーマ:「よりよい集団になるために大切なことは」
④ 授業の構想:動機付けのために事前に「集団の中で役割を押し付けられたと感じたこと」を問 うアンケートを取る→教材を読んで「A君と学級のみんなの思いのズレ」を明確にする→解決策として「選挙をする前にどうすれば良かったか」と、事前の根回しのようなことを考えさせる(個人で考え、さらにグループで話し合い、発表する)。
⑤評価の観点:「自分を大切にしながらも、集団の目的や意義を理解している」「集団の在り方について多面的・多角的に考えて、集団生活の充実と自己の資質・能力の向上に努めようとしている」―これらが達成できているか否かによって評価する
▼この指導案では結論の押しつけにならないように「考え・議論する」ことが大切にされている が、何しろ授業の目的が「集団の中での自分の役割と責任の自覚」であり、評価の観点もそこに 重点があるので、「義務」の重要性の習得に向かって生徒を誘導してしまうのではないかと危惧さ れる。
文科省の学習指導要領の「解説」では「評価は学習活動に沿って行う」とされている。「内容項 目」はあくまで「手がかり」であるともされている。ところが、「内容項目」にとらわれて評価し ようとすれば、授業の進め方自体が「内容項目」にとらわれてしまうこともありうる。この点に ついては、私たちのHPの「道徳教育の評価について」を参照してほしい。
▼本教材は体育祭のクラス対抗リレーに出場する選手選びにおいて、最高点で選手に選ばれたA 君が出場を拒否したことから起こったクラスのもめ事について考える教材である。こうしたこと は日常の学校生活においてよく起こるので、子どもたちにとっては身近に感じられるだろう。
▼A君は出たくない理由を言わず、「今年は絶対に出ないと心に決めている」と出場を拒絶した。 議長は「選挙で決まったことだ」「選挙で決まった以上、出ないのは勝手すぎる」とA君に迫った が、A君は「出ようと出まいと、ぼくの自由だ」と突っぱねた。理由を言わないA君に対してク ラスメートからは「選手になると勉強ができないから出たくないんだろう」と、いじわるな憶測 も出たが、実はそのとおりだった。A君は学期末の成績が悪かったので母からひどく叱られ、未 練のあった陸上競技部もやめていた。そんなA君だったから、リレーに出るとなると放課後の練 習にも出なければならず、勉強どころではなくなる。そのため、リレーの選手になることを断っ たのであるが、クラスメートとは激しいやり取りになった。
▼クラスメートの言い分。
「いったん選挙で選ばれた以上、クラス全員の代表として出場する義務がある」
「出ないのはA君のエゴではないか」
「勉強は個人のことで、体育祭はみんなの行事だ。個人のことが大事か、クラス全体のことがだ いじか、どっちなんだ」
▼A君の言い分。
「クラスのことがだいじでないとは言ってない。しかし、選手になったときの自分の勉強のおく れはどうなる? それに、勝手にぼくを選んでおいて、選ばれたから出ろというのは、一種の暴 力ではないか。もっと個人の気持も尊重してほしい」
▼この日の結論
「A君のエゴか、学級の暴力か、議論は結論の出ないまま時間切れとなった。しかし、これはだ いじなことだからもういちどみんなで話し合おうということで、この日は終わった」
(2)本教材の分析
▼この教材はリレーの選手選びをめぐる学級内の対立を、「A君のエゴか、学級の暴力か」とまと めて終わっており、結論は出していない。続きは次のように問いかけて、この教材を読んだ生徒 たちに考えさせようとしている。
① <考えよう>「選ばれた以上、クラス全員の代表として出場する義務がある」というみんなの 意見を、どのように思うか。
② <自分を見つめよう>集団生活の中で、果たすべき義務について、なやんだり困ったりした ことはあるか。
▼①②のいずれも、「義務」というキーワードで考えさせている。そもそも、この教材のテーマを伝える冒頭の表題自体が「義務について考えよう」である。教材名の「選手に選ばれて」より前に大きく掲げられているので、生徒は「義務の大切さについて考えるのが今日のテーマだな」と、あらかじめ導かれてしまう可能性がある。
▼この教材は2019年度から2年間だけ使用された教科書では、テーマは「権利と義務を考えて」であった。問いかけ②は「集団生活の中で、権利か義務のどちらがだいじか、なやんだり困ったりしたことはあるか」なので、「権利」と「義務」を天秤にかけて考えさせるようになっていた。リレーの選手を引き受けたくないというA君の「個人の気持」をA君の「権利」と言い換え、「選ばれた以上、クラス全員の代表として出場する」のを「義務」と言い換えて、両者を対立するものと置き、どちらが大切かと考えさせるようになっていた。ところが、2021年度から使用されている現行の教科書では「義務」しかないので、「権利」については、まったく考える余地がなくなってしまっている。同じ教材でも授業の進め方が集団の重視に傾いてしまっているのである。
▼リレーは体育祭の花形であり、一番足の速い生徒たちが出場して競い合うことによってこそ盛 り上がる。オリンピックも中学校の体育祭も同じである。競争である以上、勝たないとおもしろ くない。クラスの代表選手は勝つために練習し、その他の生徒は応援することによって団結し、 その結果クラスの絆が深まる。それなのに、A君のように小学校時代に「すばらしい成績を収め ていた」にもかかわらず、自分の都合で頑なに断る生徒が出てくることは、クラスメートにとっ ては腹立たしいし、クラスのまとまりを作りたい担任も困るだろう。だから、こぞってA君を何 としてでも説得しようとする。そんな時に「選ばれた以上、引き受けるのが義務だ」というのは 便利な言葉である。「義務」なら従うしかないからである。その結果、A君はしぶしぶ選手を引き 受けるか、あくまでも拒絶することによって、クラスに背を向け集団の輪を乱すものとして指弾 されることに耐えるしかなくなる。
▼このようなジレンマを解決するための一つの例として、東京書籍はある中学校の指導案をHP で紹介している。2019年11月12日の授業案なので、「権利と義務を考えて」がテーマだっ た時のものだが、2022年10月段階でもそのままHPで紹介している。また、東京書籍では 内容項目の「C―10 遵法精神・公徳心」を学ぶ教材とされているが、この指導案では以下の ように「C-15」に位置づけられている。
① 学習指導要領との関連づけ:「C―15 集団の中での自分の役割と責任を自覚して集団生活 の充実に努める」
②学級の現状:「集団を優先させて考えることができる生徒がいる一方、自己中心的な考えをもつ生徒もいる」
③ 授業のテーマ:「よりよい集団になるために大切なことは」
④ 授業の構想:動機付けのために事前に「集団の中で役割を押し付けられたと感じたこと」を問 うアンケートを取る→教材を読んで「A君と学級のみんなの思いのズレ」を明確にする→解決策として「選挙をする前にどうすれば良かったか」と、事前の根回しのようなことを考えさせる(個人で考え、さらにグループで話し合い、発表する)。
⑤評価の観点:「自分を大切にしながらも、集団の目的や意義を理解している」「集団の在り方について多面的・多角的に考えて、集団生活の充実と自己の資質・能力の向上に努めようとしている」―これらが達成できているか否かによって評価する
▼この指導案では結論の押しつけにならないように「考え・議論する」ことが大切にされている が、何しろ授業の目的が「集団の中での自分の役割と責任の自覚」であり、評価の観点もそこに 重点があるので、「義務」の重要性の習得に向かって生徒を誘導してしまうのではないかと危惧さ れる。
文科省の学習指導要領の「解説」では「評価は学習活動に沿って行う」とされている。「内容項 目」はあくまで「手がかり」であるともされている。ところが、「内容項目」にとらわれて評価し ようとすれば、授業の進め方自体が「内容項目」にとらわれてしまうこともありうる。この点に ついては、私たちのHPの「道徳教育の評価について」を参照してほしい。
2.本教材を扱う際に、特に注意すべきこと
▼この教材の扱いにおいて、東京書籍は子どもたちの思考と議論を、もっぱらいかに「義務」を遂行させるかに向けさせようとしており、A君の「断る権利」については掘り下げさせていない。しかし、それでいいのであろうか。ここを考えてみたい。
▼A君には「断る権利」がある。学級・学校行事には生徒が「参加する権利」はあっても、「参加する義務」はない。日本国憲法第26条の「義務教育」という概念は、「国民」(親ないし大人)が子どもに「普通教育を受けさせる義務」を負っていることを定めたものであり、子どもが「普通教育を受けなければならない義務」を定めたものではない。子どもには「普通教育を受ける権利」があるだけである。だから、保護者は子どもを学校に通わせなければ罰を受けるが、子どもは不登校になっても罰は受けない。
これに準じて考えるならば、A君は学校・学級行事も「断る権利」がある。また、A君は断るにあたって、その理由を明らかにする義務もない。無条件に断ってもいいのだということをまず確認しなければならない。実際にそんなことをすれば、クラスメートとの関係においてハレーションが生じるのは目に見えているが、それでも原則を確認することは大切である。
▼学級・学校行事が任意参加の行事であるとするならば、体育祭のリレーの選手をいきなり選挙で決めて、本人に引き受けさせようとしたことが間違いだったことが明確になる。任意行事であるならば、参加は個人の希望、つまりは立候補で決めるしかない。希望者がだれもいない場合は、クラスとしての棄権もありうる。あるいは立候補したのが足の遅い生徒ばかりで、とても勝てないようなチームになったとしても、彼らしか立候補しなかったのだからやむをえない。
▼このようなことは、そうそう起こるわけではないが、クラスの状況によっては絶対にないとはいえない。みんながクラスに帰属意識を持てなくて、クラス行事などどうでもいいのかもしれないし、いじめがはびこっているクラスでは、立候補したい生徒がいても言い出せないのかもしれない。逆に一見、活発に立候補者が出ていても、実はいじめのボスの命令に従っているだけということもありうる。あるいはまた、担任の顔色をうかがって忖度して立候補しているだけということもありうる。要するに、リレーの選手決めという日常ありふれたことにも、クラスの状況が正直に反映するということである。
▼しかし、こんなクラスでは子どもたちは居づらいだろう。本来、大多数の子どもは行事が大好きで、みんなでやることが大好きである。みんなで盛り上がって応援したいし、達成感もほしい。たとえ負けても、みんなが一生懸命にやったことだったら納得し励まし合う。もちろん、集団行動・集団行事が苦手な子もいるから、その子たちも楽しめるように行事を工夫しなければならないことは大前提である。そのうえで、それぞれがやりたい種目に立候補して、希望が重なれば当事者同士が話し合って決めるか、どちらも譲らなければじゃんけんで決めるか、選挙で決めてもらえばよい。足の速いA君が練習のいらないような競技を希望したら、みんなでそれを受け入れるか、どうしてもA君にリレーに出てほしければA君にお願いするしかない。しかし、みんなの願い・説得を受け入れるか否かはA君の自由である。成績のことで切羽詰まっているA君が勉強の方を優先したとしても、クラスメートはA君の事情をくんで、それを受け入れなければならない。そのように互いを尊重し合えるクラス集団をつくるのが担任の仕事である。
▼しかし他方で、A君が断り、クラスメートがそれを受け入れたとしても、両者にとって本当に解決したのかという問題は残る。というのは、A君はもともと陸上競技部をやめたくなかったのだし、おそらくは走るのが好きなのだろう。リレーにだって本当は出てみたいのかもしれない。母親から成績が落ちたことをしかられ、勉強中心の生活にきりかえたものの、成績が上がるという保障があるわけではないし、なにより満たされない思いで学校生活を送ることになるのではないか。みんなにとっても理屈では納得しても、クラス一速いA君の出ないリレーで負ければ残念な思いが残り、A君との関係もぎくしゃくすることがありえる。両者にとって良くない結果になる可能性が大いにある。彼らはまだ中学1年生だが、A君のように追い込まれることは他の生徒にも起こりうる。学年が進むにつれ、第二第三のA君が出てくる。A君をクラスのことを考えない自己中心的な生徒と決めつけて排斥することは、結局は周りの子どもたちにも跳ね返ってくるのである。
▼したがってここは、A君がぶつかっている状況を自分だったらと仮定し、いっしょに考えさせたい。親とのぶつかり合いはどの子にも起こりうる。部活動と勉強を両立させるためにはどうすればいいのか、勉強をどう効率よくやるか、親をどう説得するかなど、いろいろ考えさせたい。場合によっては、放課後、苦手なところを教え合うなどの助け合いも生まれるかもしれない。激しく対立し厳しいやり取りが生まれたが、互いを理解し尊重し合える集団作りのきっかけにできるのではないか。
▼この「選手に選ばれて」は、子どもの身近で起こりがちなもめ事を取り上げている。使い方次第では「人権とは何か」、「民主主義とは何か」を学ぶのに、ちょうど良い教材である。ところが、東京書籍は内容項目22項目のC―10「遵法精神、公徳心」に閉じ込め、「個人よりも集団優先」「集団への義務」を学ぶ教材にしている。そうではなく、あえて22項目で言うならば、B―8「友情、信頼」や、B―9「相互理解、寛容」、C―15「よりよい学校生活、集団生活の充実」を学ぶ授業にすることによって、豊かな広がりのある学習ができるのではないか。教材としては決して悪くないので、教科書の指導書に忠実に教えるのではなく、「民主主義社会の主権者を育成する」ために、ぜひ工夫していただきたいと思う。「民主主義社会の主権者」とは、決して孤立した個人ではなく、自分も他者も大切にできる個人でなければならないからである。
▼東京書籍はこの「選手に選ばれて」を、中学1年生の4月に学ぶ教材にしている。クラスが始まった直後にこの教材を学習することは有効である。「義務」の押しつけではなく、「ひとりひとりを大切にし、力も合わせることのできるクラスを作る」ことを確認する良い機会にしたい。
▼この教材では「みんな」という言葉がたくさん出てくる。「クラスのみんな」には当然、A君も含まれるはずであるが、ここではA君以外のクラスメートも「みんな」と表現されている。私たちも「自分も含めてのみんな」と「自分を除いたみんな」を区別せずに「みんな」と表現してしまいがちだが、やはり「みんな」には自分も含まれることを明確にしておきたい。そのため、上記の文章では「自分を除いたみんな」は「クラスメート」と表現した(教科書の本文の引用は除く)。
▼「評価」は、生徒が個人として書いたものや、グループでの話し合いで出した意見などを基にするが、内容項目を習得したか否かにはとらわれずに、「一生懸命に考え議論した」ことをもって評価したい。
▼このような流れで授業をやるとなると、1コマの授業では無理なので、次のように2コマを使ってやる授業例を考えてみた。参考にしてほしい。
▼A君には「断る権利」がある。学級・学校行事には生徒が「参加する権利」はあっても、「参加する義務」はない。日本国憲法第26条の「義務教育」という概念は、「国民」(親ないし大人)が子どもに「普通教育を受けさせる義務」を負っていることを定めたものであり、子どもが「普通教育を受けなければならない義務」を定めたものではない。子どもには「普通教育を受ける権利」があるだけである。だから、保護者は子どもを学校に通わせなければ罰を受けるが、子どもは不登校になっても罰は受けない。
これに準じて考えるならば、A君は学校・学級行事も「断る権利」がある。また、A君は断るにあたって、その理由を明らかにする義務もない。無条件に断ってもいいのだということをまず確認しなければならない。実際にそんなことをすれば、クラスメートとの関係においてハレーションが生じるのは目に見えているが、それでも原則を確認することは大切である。
▼学級・学校行事が任意参加の行事であるとするならば、体育祭のリレーの選手をいきなり選挙で決めて、本人に引き受けさせようとしたことが間違いだったことが明確になる。任意行事であるならば、参加は個人の希望、つまりは立候補で決めるしかない。希望者がだれもいない場合は、クラスとしての棄権もありうる。あるいは立候補したのが足の遅い生徒ばかりで、とても勝てないようなチームになったとしても、彼らしか立候補しなかったのだからやむをえない。
▼このようなことは、そうそう起こるわけではないが、クラスの状況によっては絶対にないとはいえない。みんながクラスに帰属意識を持てなくて、クラス行事などどうでもいいのかもしれないし、いじめがはびこっているクラスでは、立候補したい生徒がいても言い出せないのかもしれない。逆に一見、活発に立候補者が出ていても、実はいじめのボスの命令に従っているだけということもありうる。あるいはまた、担任の顔色をうかがって忖度して立候補しているだけということもありうる。要するに、リレーの選手決めという日常ありふれたことにも、クラスの状況が正直に反映するということである。
▼しかし、こんなクラスでは子どもたちは居づらいだろう。本来、大多数の子どもは行事が大好きで、みんなでやることが大好きである。みんなで盛り上がって応援したいし、達成感もほしい。たとえ負けても、みんなが一生懸命にやったことだったら納得し励まし合う。もちろん、集団行動・集団行事が苦手な子もいるから、その子たちも楽しめるように行事を工夫しなければならないことは大前提である。そのうえで、それぞれがやりたい種目に立候補して、希望が重なれば当事者同士が話し合って決めるか、どちらも譲らなければじゃんけんで決めるか、選挙で決めてもらえばよい。足の速いA君が練習のいらないような競技を希望したら、みんなでそれを受け入れるか、どうしてもA君にリレーに出てほしければA君にお願いするしかない。しかし、みんなの願い・説得を受け入れるか否かはA君の自由である。成績のことで切羽詰まっているA君が勉強の方を優先したとしても、クラスメートはA君の事情をくんで、それを受け入れなければならない。そのように互いを尊重し合えるクラス集団をつくるのが担任の仕事である。
▼しかし他方で、A君が断り、クラスメートがそれを受け入れたとしても、両者にとって本当に解決したのかという問題は残る。というのは、A君はもともと陸上競技部をやめたくなかったのだし、おそらくは走るのが好きなのだろう。リレーにだって本当は出てみたいのかもしれない。母親から成績が落ちたことをしかられ、勉強中心の生活にきりかえたものの、成績が上がるという保障があるわけではないし、なにより満たされない思いで学校生活を送ることになるのではないか。みんなにとっても理屈では納得しても、クラス一速いA君の出ないリレーで負ければ残念な思いが残り、A君との関係もぎくしゃくすることがありえる。両者にとって良くない結果になる可能性が大いにある。彼らはまだ中学1年生だが、A君のように追い込まれることは他の生徒にも起こりうる。学年が進むにつれ、第二第三のA君が出てくる。A君をクラスのことを考えない自己中心的な生徒と決めつけて排斥することは、結局は周りの子どもたちにも跳ね返ってくるのである。
▼したがってここは、A君がぶつかっている状況を自分だったらと仮定し、いっしょに考えさせたい。親とのぶつかり合いはどの子にも起こりうる。部活動と勉強を両立させるためにはどうすればいいのか、勉強をどう効率よくやるか、親をどう説得するかなど、いろいろ考えさせたい。場合によっては、放課後、苦手なところを教え合うなどの助け合いも生まれるかもしれない。激しく対立し厳しいやり取りが生まれたが、互いを理解し尊重し合える集団作りのきっかけにできるのではないか。
▼この「選手に選ばれて」は、子どもの身近で起こりがちなもめ事を取り上げている。使い方次第では「人権とは何か」、「民主主義とは何か」を学ぶのに、ちょうど良い教材である。ところが、東京書籍は内容項目22項目のC―10「遵法精神、公徳心」に閉じ込め、「個人よりも集団優先」「集団への義務」を学ぶ教材にしている。そうではなく、あえて22項目で言うならば、B―8「友情、信頼」や、B―9「相互理解、寛容」、C―15「よりよい学校生活、集団生活の充実」を学ぶ授業にすることによって、豊かな広がりのある学習ができるのではないか。教材としては決して悪くないので、教科書の指導書に忠実に教えるのではなく、「民主主義社会の主権者を育成する」ために、ぜひ工夫していただきたいと思う。「民主主義社会の主権者」とは、決して孤立した個人ではなく、自分も他者も大切にできる個人でなければならないからである。
▼東京書籍はこの「選手に選ばれて」を、中学1年生の4月に学ぶ教材にしている。クラスが始まった直後にこの教材を学習することは有効である。「義務」の押しつけではなく、「ひとりひとりを大切にし、力も合わせることのできるクラスを作る」ことを確認する良い機会にしたい。
▼この教材では「みんな」という言葉がたくさん出てくる。「クラスのみんな」には当然、A君も含まれるはずであるが、ここではA君以外のクラスメートも「みんな」と表現されている。私たちも「自分も含めてのみんな」と「自分を除いたみんな」を区別せずに「みんな」と表現してしまいがちだが、やはり「みんな」には自分も含まれることを明確にしておきたい。そのため、上記の文章では「自分を除いたみんな」は「クラスメート」と表現した(教科書の本文の引用は除く)。
▼「評価」は、生徒が個人として書いたものや、グループでの話し合いで出した意見などを基にするが、内容項目を習得したか否かにはとらわれずに、「一生懸命に考え議論した」ことをもって評価したい。
▼このような流れで授業をやるとなると、1コマの授業では無理なので、次のように2コマを使ってやる授業例を考えてみた。参考にしてほしい。
指導案はPDFをご覧ください。ダウンロードできます。