小学校 道徳教科書
六千人の命のビザ―杉原千畝―
内容項目 | 主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること |
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よりよく生きる喜び |
教材名
「杉原千畝―大勢の人の命を救った外交官」(日本文教出版6年 p.98 「社会正義の実現」)
「五十五年目の恩返し」(光村図書6年 p.138 「感謝」)
「六千人の命を救った決断―杉原千畝」(光文書院6年 p.114 「社会正義」)
「六千人の命のビザ―杉原千畝―」(教育出版6年 p.72 「よりよく生きる喜び」)
▼上記の4つの教材は、いずれも杉原千畝の人道的行為の意義を伝える偉人伝である。杉原の行為は当時の世界的な厳しい政治状況に抵抗しておこなわれたものなので、当然それとの関係で杉原の行動の意義を明らかにしなければならない。ユダヤ人たちはなぜポーランドから脱出しなければならなかったのか、ビザの発給がなぜ困難だったのか、当時の日本とドイツとの関係という歴史的背景を伝えることによって、杉原の決断の意義がいっそう明確になる。
▼ところが、4社の教材はいずれもそこがあいまいにされている。光村図書と日本文教出版の記述では、 ユダヤ人が亡命先までの渡航費用を十分に持っていなかったことが主要な理由であるかのように記述されている。これは文科省が検定意見をつけたことによって、記述が改悪されたからである。[資料1]
▼したがって、この教材の学習においてはユダヤ人避難民に対する当時の日本政府の方針について補足する必要がある。[資料2]
▼またのちに、杉原がイスラエル政府から表彰されたことには4社ともに触れているが、戦後、杉原が 外務省を解雇されたこと(表向きは依願退職)には触れていないので、これも補足したい。[資料3]
▼この教材では日本政府と杉原の関係の部分があいまいにされ、日本政府へ批判が向かないようにされている。しかし、それでは当時の杉原の置かれた状況の困難さと決断の意義が鮮明にならないので、ぜひ補足資料を活用してほしい。
▼このように、この教材にはある程度、歴史的知識が必要である。したがって、歴史の学習を済ませた6年生の後半に学習することをお薦めする。
▼しかし、杉原の行動を「正解」であるかのように前提にすることは避けるべきである。困難な状況の中では人は簡単には決断できないし決断の内容も異なる。したがって、「国の命令に逆らうことはむずかしい」とか「自分は杉原のように解雇覚悟でビザを出すことはできない」と考えることもふくめて互いの葛藤から学び、オープンエンドで終わらせ、真剣に考えたことをもって評価したい。
[資料1]検定修正で記述がどのように変わったか
光村図書、日本文教出版、光文書院の三社に、「児童が誤解するおそれのある表現である(当時の日本の外交政策)」という検定意見がついた。文科省はどこをどう直すべきかという具体的な指摘はせず、出版社に“忖度”させた。そこで、三社は次のように記述を修正して検定に合格した。
<光村図書6年> p.140
原文「しかし、日本も、1936年(昭和11年)にナチスが政権を取っていたドイツと協定を結んでいて、ユダヤ人にビザを発行することが難しかった。」 ↓
➡ 修正文「領事館におし寄せたユダヤ人の中には、ビザをもらう条件を満たしていない人も多くふくまれていた。」
<日本文教出版6年> p.99
原文「日本と同盟を結んでいたドイツとの約束をやぶることになるので、日本政府はそう簡単に許可を出すわけにはいきませんでした。そこで、政府は、表向きはユダヤ人も他の人々と同じように条件つきで許可を出すようにしました。しかし、実際は許可を出さないようなきまりだったのです。」
➡ 修正文「日本と親交の深かったドイツとの関係が悪くなるかもしれません。また、日本が許可を出す条件は、十分な費用と日本を通ってにげる先の国の入国許可があることでした。それは当時のユダヤ人にとって、満たすのが難しい条件でした。」
<光文書院6年> p.115
原文「しかし、外務省は、ビザの発行を許可しなかった。日本はこの時代、ドイツと同盟を結んでいたた
め、ドイツが迫害しているユダヤ人を助けることができなかったのだ。」
➡ 修正文「しかし、外務省は、当時のきまりにしたがい、ビザの発行を許可しなかった。」
[資料2]なぜ、外務省は杉原に希望者全員へのビザの発行を許可しなかったのか
1938年10月7日段階で、当時の近衛文麿外務大臣は「ユダヤ難民の入国に関する件」という以下のような極秘の命令を出している。
「ドイツおよびイタリアにおいて排斥を受け、外国に避難する者をわが国に受け入れることは、大局上よろしくないのみならず、現在事変(日中戦争)下にあるわが国では、これらの避難民を収容する余地はないのが実情なので、今後はこの種の避難民(外部に対しては単に『避難民』の名義とすること、実際はユダヤ人避難民を意味する)のわが国内地(本土)ならびに各植民地への入国は好ましくない(ただし、通過はこの限りでない)とすることで意見が一致した。」
この「大局上よろしくない」というのは、1937年に結ばれた日独伊防共協定との関係で、友好国であるドイツのユダヤ人政策に逆らうようなことはよろしくないと、日本政府が考えていたことを指している。だが、この時点では通過ビザを出すことまでは禁止していなかった。しかし、1940年の夏に多くのユダヤ人がリトアニアのカウナス日本領事館に押しかけた時には、外務省は発給条件(行き先国の許可、行き先までの渡航費用の所持)の厳守を何度も指示し、8月16日には次のような注意を杉原に与えている。
「最近、カウナスの領事館から日本を経由してアメリカ・カナダに行こうとする『リトアニア』人の中には、必要なお金を持っていなかったり行き先の国の手続きが済んでいなかったりなどの理由で、わが国への上陸が許可できずその処置に困ることがあります。避難民と見なしうる者に関しては、行き先国の手続きを完了し、旅費・滞在費などに相当する携帯金を持っている者でなければビザを与えないよう取りはからってください。」
カウナスの日本領事館にユダヤ人たちが押し寄せた1940年の夏は、9月の日独伊三国同盟の締結を目前に控えた時期であった。ナチス政権が弾圧しているユダヤ人を救済し、ドイツとの関係を悪化させることを避けるために、日本政府は「通過」も制限しようとしたと考えられる。
実際のところ、ポーランドを脱出してきたユダヤ人たちの多くは、渡航先の明確な許可書も十分な所持金も所持していなかった。しかし、ユダヤ人避難民たちが条件を満たしていなくとも、人道上の判断からビザを出す国はあり外交官もいた。杉原もまた外務省の指示を無視して、2千枚以上の大量のビザを発行し、6千人以上のユダヤ人が日本を通過できるようにした。これを国際世論は高く評価し、避難民たちにはアメリカのユダヤ人協会などから多くの寄付金が寄せられ、彼らは無事アメリカ大陸に渡れたのである。
杉原の行動は明らかな命令違反であり、処分覚悟の行動であった。しかし国際世論の支持を得た杉原を日本政府は処分できず(当時まだ日本は連合国とは開戦しておらず、アメリカなどの世論を無視することはできなかった)、またソ連の情報に詳しい杉原の力が必要だったこともあり、敗戦までは杉原に処分が下されることはなかった。
[資料3]戦後の外務省の対応
6千人の命のビザ発給の後日談を4社ともに記述しているが、杉原が戦後、外務省を解雇されたことにはどこも触れていない。
1.杉原は戦後、命令に逆らったことを厳しく問われ、外務省を解雇された(表向きは依願退職)。解雇された杉原は生活に苦労したが、得意のロシア語を使って商社に就職することができ、なんとか家族を養うことができた。
2.戦後、杉原に救われたユダヤ人たちは杉原に会うために外務省に杉原の消息をたずねた。しかし外務省はそんな人物はいないと杉原の存在そのものを否定した。それは問い合わせの名前が「センポ・スギハラ」だったためである。杉原は「千畝(ちうね)」という名前が外国人には呼びにくいので、「センポ」と呼ばせていた。そのためユダヤ人たちは「センポ」が本名だと思っていたのである。
3.外務省はもちろんそのことを知っていた。リトアニアで大量のビザを発行した「スギハラ」という人物は、杉原千畝しかいないことは百も承知だった。しかし「センポ・スギハラ」はいないとごまかし杉原を解雇したことを隠したため、長い間ユダヤ人たちは杉原を見つけることができなかったが、杉原の方からイスラエル大使館にユダヤ人の消息を問い合わせたことがきっかけとなって、再会することができた。
4.1985年、イスラエルは杉原に「諸国民の中の正義の人賞」を授与した。杉原はその翌年に86歳で亡くなった。
5.日本の民間では杉原の功績をたたえ、1992年にはテレビドラマも作られたが、政府が正式に杉原の名誉回復をしたのは、杉原が亡くなって14年後の2000年のことだった。このとき、杉原の業績をたたえるプレートが外務省に設置された。2015年には、唐沢寿明主演で映画も作られた。