小学校 道徳教科書
学校図書 かがやけみらい
荘川桜
内容項目 | 主として集団や社会との関わりに関すること |
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伝統と文化の尊重、国や郷土を愛する態度 |
1.本教材について
本教材「荘川桜」は、御母(みぼ)衣(ろ)ダム建設にまつわる話である。 国は1952年、電力需要の増加に対応するため電源開発促進法を制定、「電源開発」を設立。御母衣ダム建設に取りかかった。荘川村と周辺の水没予定地域では約1200~1300人が移転を迫られた計画。住民は先祖代々住み着いてきた故郷を失うと、猛然と反対した。 足掛け7年(1959年)、交渉は難航の末、妥結。反対運動は終わった。御母衣湖畔にたっている2本の巨桜は、荘川村が水没する前に移植されたもので、「荘川桜」と呼ばれている。 ▼本教材の記述には、事実関係の誤りが複数個所ある。(※検証のための資料を末尾に紹介) ①ダム建設の交渉が妥結したことを、本文はこのように記述している。「つまり、ダムづくりの工事を受け入れたのです。ここにダムをつくることが、日本の国全体のためになるのだということに気付き、・・」と。この記述は事実と異なる。交渉が難航し、買収に応じて移転する住民が増え、村民の暮らしと共同体が壊れていく状況の中で、反対運動は追い込まれていった。そんな中、電源開発が示した補償交渉の基本姿勢を示した覚書(1956年)に、『立ち退きの余儀ない状況にあいなったとき』という文言がある。すなわち決裂すれば強制収容となるのだ、だからその前に条件で妥結する以外の道はないということを示している。住民は追い詰められ妥結したのであって、教材文の「受け入れた」という言葉は当たらない。 ②「工事の中心者である高碕達之介」(電源開発総裁)という人物についても、事実を大きく歪曲し、美化している。 教科書では村人の訴えを聞く場面があり、挿絵もつけてある。さらに「両者の話し合いは、実に7年間も続きました。」と書いてある。しかし高碕氏の総裁在任期間は1952~1954のわずか2年。53年に事業者のトップとして反対運動団体の陳情を受けているが、それ以後は手紙のやりとりのみで、 ダム予定地に足を運ぶことは無かった(末尾資料のp.92)。高碕氏が初めて荘川の地を訪れたのは、妥結後いよいよ反対組織が解散するとき(1959年11月の解散式)である。(※その折に高碕氏が桜の移植を提案した。) この教材文は、高碕氏の説得で村人がお国のために故郷を犠牲にすることを受け入れたという、事実と大きくかけ離れたストーリーになっており、国策にねじ伏せられた村民の憤りや無念の思いが覆い隠されてしまっている。
2.本教材を扱う際に、特に注意すべきだと考えたこと
〇この教材文を扱うとすれば、誤りを正す必要がある。しかし交渉や経緯など資料に基づく事実の検証は発達段階を考えると難しい。また、一方的に国益優先の考え方にならないよう注意しなければならないが、住民が平和的に生存する権利と国策との対立について考える時間は1時間ではとうてい無理であろう。このような社会的問題は、道徳ではなく、社会科においてしっかり考えていくべきである。 〇この教材には誤った記述があり、それが全体に作用していることを考えると、はたして教材として扱えるのか疑問である。御母衣湖畔の桜のエピソードを教師が語るにとどめ本文から離れて授業を組み立てる(下記は一試案)、もしくは本教材文を回避し副教材を使用することを考えたい。
参考資料
■『御母衣ダムと荘白川地方の50年』; 著編者;浜本篤史 発行所;まつお出版 2011.6.1
この書は、御母衣ダム完成後の50年を機会に水没地であった白川村と荘川村の変遷をコンパクトに記録している。村史、当時の発行物など、多数の文献に基づいて執筆しており、出典は明確に記してある。
編著者は、名古屋市立大学大学院人間文化研究所 准教授 博士(社会学)
■ウェブサイトで検索すると、 「高碕達之助は自ら何度も現地を訪れ、「死守会」のメンバーと対談した。高碕は時に涙を流しながら膝詰めで話し合いを行い、・・・・」などとするフィクションが多いので、注意を要する。
<授業の試案>
タイトルは; 「◯◯町のここが好き」、今自分たちが暮らしている「町・再発見」、など。
ねらい; 自分たちが住む町の好きなところを紹介し合う活動を通して、人それぞれの見方や感じ方を知り、互いに認め合う。同時に、気付かなかった町のよさを発見する。
参考資料