中学校 道徳教科書の東京書籍 新しい道徳(中学校)の教材、「宝塚方面行き―西宮北口駅 B案」の内容です。

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宝塚方面行き―西宮北口駅 B案 (東京書籍 中学校2年 p.76)

内容項目 主として集団や社会との関わりに関すること
遵法精神、公徳心
公正、公平、社会正義
友情、信頼
東京書籍 中道徳2年-1
1. 本教材について * この教材は内容項目の「C―10 遵法精神、公徳心」を学ぶ教材とされているが、この「もう一つの指導案」では、「B―8 友情、信頼」、「C―11 公正、公平、社会正義」に広げて学べるように構成している。理由は、以下の本文の「2.本教材を扱う際に、特に注意すべきこと」の(1)で説明している。

(1)本教材の内容
▼本教材は電車内の「席取り」について考えさせる教材である。中学2年生のミサは後から来る友人のマユミのために、隣の座席にマユミの鞄を置いて席を確保していた。それをおじいさんから強く非難され、周りの乗客からも非難のまなざしが送られていた。ミサはおじいさんに「友達が掃除当番で疲れて帰ってくるから」と言い訳したが、おじいさんからは「やったらあんたが席替わったったらええやろが!言い訳すな!」と喝破されてしまった。そこへマユミが「お待たせ!席取っといてくれてありがと!」とやってきた。マユミがその場の状況に気づかず、「ミサ、このジジイに何かされたん?」と言うと、おじいさんは「何かしとったのはお前らやろが、しょっちゅう、しょっちゅう」。「混んでる電車でみんな座りたいのに、鞄座らせてまで連れの分の席取って、どんな教育されとんじゃ!」「どこの学校のガキどもやお前らは!言うてみい!」と怒鳴られた。
▼「学校に言いつけられる!」と思ったミサは、とっさに席を立ち、「すみませんでした、これから気をつけますっ」と、言い捨てるような口調ではあったが、一応は謝った。マユミもようやく状況に気づき、不服そうな顔でいっしょに頭を下げた。二人は逃げるように電車を降り、ホームのベンチに座り込んだ。ミサがマユミのために取ってあった座席にはだれも座ってなかった。しかし、マユミは「……絶対ホームから見えへんようになったらあのジジイが座るんやで」とふて腐れたようにコンクリの床を蹴り、さらに「自分が座りたかったから難癖つけてただけやで、絶対」と毒づいた。

(2)本教材の分析
▼おじいさんがミサの席取り行為を「しょっちゅう、しょっちゅう」と言っていることからして、ミサとマユミの行動は乗客からしばしば目撃されていたのだろう。この日、おじいさんはとうとう堪忍袋の緒が切れて怒鳴った。その他の乗客の雰囲気からして、おじいさんだけが腹を立てているのではなく、二人の行動は乗客のほとんどからひんしゅくを買っていたことがわかる。おじいさんはその場の乗客を代表して、二人を厳しく叱ったのだった。
▼それに対して、二人は一応は謝ったものの、自分たちのやっていたことの誤りに気づいてはいない。ミサはおじいさんから「どこの学校のガキどもやお前らは!言うてみい!」と詰問されて、学校に言いつけられたらまずいと思って謝っただけであった。マユミにいたってはミサが頭を下げているのでしかたなくいっしょに頭を下げただけだった。そのうえ、マユミは電車を降りてからも、おじいさんは自分が座りたいから席取りに難癖をつけただけだと、おじいさんをののしった。
▼こういうことは日常生活でよくあることで、大人でもやりがちだ。映画館では最近はチケットの購入と同時に席も指定できるが、以前はそうではなく、整理券が配られたり、もっと前は完全な自由席だった。整理券が配られていても、後から来る友人のために帽子やハンカチを置いて、いくつもの席を占領することが横行していた。このような「席取り」が道義的には許されないことを、たいていの大人も子どもも知っている。自分の目の前でこんなことをされたら、誰でも腹を立てるだろう。それでも、こういうことがしょっちゅう起きる。なぜなら、人はたびたび「道義(モラル、マナー)」よりも自分の都合を優先してしまうからである。頭では理解していても、つい自己中心的な行動をしてしまうのである。
▼この教材には、最後に「そうじゃないのは二人ともたぶん分かっていた」との一文がある。おじいさんが叱ったのは自分が座りたかったからではなく、二人がやっていた自己中心的な行動に道義的な怒りを感じていたからだと、二人は心の中では理解していたことにしている。つまり、二人は自分たちの行動の問題に気づいていたことにしているが、はたしてそうだろうか。
2. 本教材を扱う際に、特に注意すべきこと (1)二人の態度・心理を掘り下げること
▼本教材では、ミサもマユミも「席取り」などしてはいけないことを「わかっていた」ことにして、それを前提に、二人のこれからの行動を考えさせたり、さらに「迷惑」をかけないための注意点を考えることに広げようとしているが、その前に、立ち止まって考えさせる必要があるのではないか。というのは、ミサが「すみませんでした。これから気をつけます」と言ったのは、おじいさんから学校名を聞かれ、「学校に言いつけられる」ことを恐れたからだった。マユミはそのミサの対応を見て自分もしかたなく頭を下げたが、電車を降りてからも、おじいさんは自分が座りたいから二人をどかせようとしただけだと、おじいさんも自分たちと同じ自己中心的な人物であるかのようにおとしめていた。つまり、二人はおじいさんから注意されて、自分たちがやったことの問題に気づいて、反省したから電車を降りたのではなかったということだ。
▼この場合、自分もこういう対応をしたことがあるかと、生徒自身の経験にすぐに論点を移すのではなく、まずもってはこの二人の態度について考えさせたい。ミサとマユミは仲良しで、ミサにとっては他の乗客よりマユミの方が大切だったから「席取り」をした。このときは電車内がかなり混んでいる時で、立っている乗客もいたが、その人たちのことは実質上ミサの目には入っていなかった。挿絵ではミサはスマホを持ったまま、どなるおじいさんを見上げているので、おそらく注意されるまでスマホを見ていて、車内の様子にも気づいていなかったと思われる。あるいは気づいていても、ミサにとっては見知らぬ人たちには関心がなかったのだろう。マユミの方は自分のために席が確保されていることが重要で、乗客をかき分けて座ることに躊躇もしていなかったと思われる。この二人は自分たちのことしか頭になかったのである。
▼なぜ、こんなことになってしまうのか。人はだれしも自分が一番大切で、個人の「権利」という概念もそれゆえに成り立つ。しかし、個人の「権利」と「権利」は容易に対立もする。それゆえに相手の「権利」も尊重する「共生」という概念をもとに、「権利」と「権利」を調整しなければならない。日本国憲法ではそれを「公共の福祉」という概念で表現しているが、「道徳」の内容項目では「C-11 公正、公平、社会正義」がそれにあたる。また、ミサがマユミのために「席取り」をしたのは、ミサにとってマユミは、自分の次に大事な友だちだったからだ。内容項目でいえば、「B―8 友情、信頼」にかかわるが、この「友情、信頼」が「公正、公平、社会正義」よりも優先されてしまったのが、ミサとマユミの「席取り」の例だろう。自分に近いものを「内」と感じ大事にするが、それ以外の他者は「外」にいる存在として、関心も薄く大切にする対象にもならないという、集団生活をする人間が陥りがちな現象である。日本の社会だけに特有なことではなく、文化的・時代的差異はあるものの、世界共通の現象であろう。
 もちろん、だれを「内」とし、だれを「外」にするかは、固定的なものではなく、時と場合によって異なる。学級対抗のリレーでは自分のクラスの選手は「内」であり応援の対象であるが(いじめられていたりしたら応援しないことも当然ありうる)、学校対抗リレーではよそのクラスの選手も「内」であり応援するだろう。場面によって「内」と「外」は容易に変わる。
 東京書籍はこの教材を「C―10 遵法精神、公徳心」を学ぶ教材としているが、「ルールは守らねばならない」ことを前提に、規則を守ることの大切さを学ぶ教材にするよりは 、「友情」と「公正、公平」の対立をどのように解決するのかを学ぶ教材として、指導過程を作成するのが適切ではないかと考える。
▼この教材では、さらに考えさせたい問題がある。マユミはおじいさんから厳しく叱られたが、素直に反省できず、相手をおとしめ、自分の問題を軽くしようとさえしていることである。このような開き直りはだれにでもありがちである。自分の行動を正当化したい心情にとらわれ、批判を素直に受け止められない。生徒たちにはこの問題についても考えさせたい。

(2)「席取り」=絶対悪との前提に立たない
▼この教材では混みあう車内で、友だちの席を確保しようとしたことが問題になっているが、乗客が少ない場合はまた違ってくるだろう。遅れてくる友だちのために横の席を確保していても、また自分の荷物を横に置いても、それは許される範囲だろう。混んできたら周りの状況を見て、荷物をどかせて自分の膝に乗せるなり、床や網棚に置けばもめることはない。友だちがあとから乗り込んできて、自分の席がないことに気づいても、それはしかたのないことである。友だちがとても疲れているようだったら、おじいさんが言うように、自分が席を譲ればよいだけのことである。
 「臨機応変」という言葉があるが、道徳もまた柔軟に考えることができる。大切なことは公共の空間において、他者を尊重し、「共生」しようとする態度を養うことである。公共の空間ではなく、家庭内であっても「共生」の精神は大切である。家族であっても一人一人別人格であり、親子・兄弟・夫婦であっても、自分にとっては他者である。「親しき仲にも礼儀あり」ということわざがある。家庭という私的空間ではより自由度は増すものの、家庭内であっても互いに尊重し合い、譲り合う精神が大事である。
▼先にも述べたように、個人の「権利」はしばしばぶつかり合う。電車の座席ひとつをとっても、座りたい人が多ければ奪い合いになる。ほおっておけば力の強い者が座席を独占する。それを避けるために、「高齢者、病人、しょうがい者、妊婦」などを社会的弱者と認定し、優先座席を設けている。しかし、その優先座席でも、だれも座っていなかったら、だれが座ってもいいだろう。若者であっても健康な人であっても、ひどく疲れていて座りたい時があるはずだ。心臓に疾患のある男性が優先座席に座っていたら、立っていた高齢者から嫌味を言われたという記事が出ていた。年齢や外見だけではわからない場合もある。だから、配慮を必要とする人が身につけるヘルプマークも普及しつつある。
 要は、優先座席に優先的に座る権利があるとされている人が乗ってきたら、席を譲ることができればよいのである。しかし、実際には優先座席に座った若者などの多くはスマホを見るのに夢中で(あるいは夢中になっている振りをしているのかもしれない)、高齢者や妊婦が乗ってきても知らん顔している場合が多い。生徒に自分を振りかえらせることをつうじて、こうした状況のことも考えさせたい。
▼この教材では、おじいさんは義憤にかられて二人を厳しく叱ったことになっており、二人が下車してからもおじいさんは空いた席には座らなかっただろうということになっているが、おじいさんが座ったとしても何の問題もない。空いている席にはだれが座ってもよい。このおじいさんだったら自分は座らず、他の人に席を勧めた可能性が高いと思われるが、おじいさんを特別に高潔な人物ととらえるのではなく、自分もしんどいから座ったかもしれないという余地は残しておきたい。
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